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茶の湯の歴史‐武野紹鷗‐侘び茶とは?‐

 
 

武野紹鷗(1502~1555)は堺に生まれ、商人として過ごす。その後、村田珠光の詫び茶を習得して、侘び茶を発展させた。


 

武野紹鷗の出身地、堺は日本を代表する商業都市として栄える。戦国時代にありながら、自治が行われていた。堺の豪商の家に生まれた武野紹鷗は、商人として生活を行い、和歌にも精通していた。


 

その後、上洛して、村田珠光の侘び茶を習得する。また、三畳座敷などの小座敷を考案し、侘び茶をさらに発展させた。


 

お茶の文化は、中国から伝来したものである。武野紹鷗はその中国文化のお茶に、日本独自の要素である和歌を取り入れた。お茶に和歌の要素を取り入れる事によって、茶の湯を日本の文化として大成させた。


 

「詫び茶の理想‐藤原定家の和歌‐」

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮れ


 

現代語訳・見渡すと、春の桜の花や秋の紅葉もなかった。この浜辺の苫ぶきの小屋のあたりの秋の夕暮れは。


 

意味・花や紅葉がある風景は美しいが、花や紅葉もない色彩感を排除した、わびしい風景の静寂観に心ひかれる。


 

 そして、武野紹鷗の茶の湯はその弟子千利休によって確固たるものとして確立されていく。
 




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